コンプライアンスと意識改革(好かれるワケ 嫌われるワケ(第三回))

「あれもこれもを求め実現するのが意識改革」

 山本夏彦の「茶の間の正義」を読み返してみた。茶の間の正義とは、眉ツバものの、うさん臭い正義のことだそうだ。昭和42年に出版されたものであるが、今読んでも、世間というものがいかに変わっていないのか、実感させられる内容である。いわく「新聞は、経営者を悪玉にして、労働者を善玉にする。官を悪玉にして民を善玉にする。けれども、民が腐敗しないで官だけひとり腐敗するわけない。」けだし至言である。牛肉偽装問題で、不祥事を起こした経営者が「消費者が安くしろ、安くしろと求めるのも悪い」といった主旨の発言をし、非難を浴びた。発言を肯定するつもりはないが、行動を起こさせた一因であると受け止めず、ひどい発言だと罵るばかりで真の対策を検討しないのが茶の間の正義なのか。
 同じ著書の中で、「身辺清潔な人は、何事もしない人である。出来ない人である。政治ばかりではない。事業も清潔だけで出来るものではない。」と述べている。ここでいう、身辺清潔な人とは、何事にも執着せず、清潔であることを目的とする人だと思う。人生達観するのは素晴らしい。しかし、本音を言えば、組織活動の中には、会社の目的実現のため泥をかぶる行為、ルールすれすれの活動を強いられるケースもあるのではないか。
今、組織はコンプライアンス・内部統制を徹底することが求められている。では、私たちは果たして皆が、身辺清潔な人になることを望むのだろうか。むろん、ルールを逸脱する行為は許されない。だからといって、ルールすれすれの手段を講じてでも会社を支えようとする人に、身辺清潔な人になって欲しいと本当に望むのであろうか。
コンプライアンス・内部統制の徹底は、さじ加減を間違えると、組織を身辺清潔な人だけの集団に変えかねない。泥をかぶってでも会社をささえよう、成果を出そうとする人に対し、ルールだからといって、それまでの行動を安易に否定し、ルールを監視するためだけに仕事量を増やすような仕組みを強制すれば、気持ちを萎縮させることにつながる。それは、ルールを守るが、自分で考え、行動しない人任せの集団を作るリスクを生む。きれいごとだけでは、成果を出すことが出来ない環境にいるならば、コンプライアンスや内部統制は業績低迷の一因になりかねない。
徹底したいのであれば、意識改革のバランスを取ることが重要である。泥をかぶることも厭わない人に、原則を守ることが大事であると意識させ、同時に、身辺清潔な人に、自ら成果を出すように意識改革を促すことが大事なのである。アウトプットやインプットの目標達成だけで、評価を望むような人に、アウトカムの目標への自らの貢献を意識できるような仕組みを作ることが肝心なのである。
 経営者が求めるのは、コンプライアンス・内部統制の徹底による会社の成長である。そのためには、コンプライアンスを遵守し、内部統制を効率的に運用し、誰もが成果を出す意識を持つよう養成し、そういう人が働きやすい環境を作らなければならない。経営者は、このあれもこれもを実現できるように智恵を出しているかを、よくよく確認しなければならない。「コンプライアンスも成果も、と口で言っているけど、制度がそうなっていない」と指摘されて、たわけた発言だと無視することができるだろうか。そしてそれは本当の正義なのだろうか。
 (「生産性新聞」2008年10月15日号に掲載されたものです)

コメント

人気の投稿